【病跡学から迫る、文豪たちの心の闇】Risaの、あの文学作品はこうして生まれた!?―vol.2 太宰治の青年期編

ー太宰治の青年期ー

 

Vol.2の今回は、太宰治の青年期、女性関係や自殺について掘り下げていこう。 

  

太宰が生涯愛そうと決めた初めての女性、小山初代。

15歳に出会った時、初代は芸者であった。

 

 

 

太宰は彼女をとても気に入り、何度も指名し、そこから二人の関係は始まっていく。

 

しかしながら、彼は以降、頻繁に芸者遊びをするようになり、執筆活動も本格的に始まったこともあり、学業を放棄するようになったという。 

 

 

芸者遊びと小説執筆の日々…。

 

 

 

彼が20歳の時、学校の期末テスト前夜に大量の薬物を服用し、ついには自殺未遂を起こす。

 

芸者遊びによる金銭破綻もあったのだろうけれど、他に大きな理由があった。

 

それは、著書『苦悩の年鑑』で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と語っているように、太宰の実家は裕福であり、お金を人から搾取する側であるのに、思想はプロレタリア(プロレタリア…資本主義社会における賃金労働者階級のこと)であったことに、悩んだ末のことであったという。 

 

 

私はここで、彼が除籍になることに対する不安も、自殺の要因の一つだったのではないかと思う。

 

テスト前日、それは私たち学生の心には、大きな負担のかかるものである。

 

まして日本最高峰、東大のエリートだ。不安感に蝕まれ、情緒不安定になってもおかしくはない。

 

彼の成績に対するこの不安も、自殺願望を増長させてしまったのではないだろうか。

 

成績低下による留年への懸念や、自分の背負った家柄という階級が堕落してしまうかもしれない不安に、押しつぶされそうになったのだろう。

 

思想に悩むことから、彼は繊細で人一倍感受性に長けていたとも思われる。

 

それは、傷つきやすくネガティブ思考に陥りやすいと言える。

 

彼の苦悩ぶりは、推測するに、霧がかった靄の中を、視界の悪い中手探りに進むようなものだ。霧が晴れれば、光と共に視界は必ず開けるのに…。

 

 

自殺未遂から立ち直った太宰は、以前より執筆活動に力を入れ、井伏鱒二の門下となる。

 

そしてそこから2年の月日を経た22歳の時、初代に同棲の話を持ちだした。

 

初代はその先の幸せな結婚を純粋に夢見たが、太宰は、初代という芸者を江戸文化の一部と考え、傍に置きたいと考えるただの私欲に過ぎなかった。

 

両者のその同棲の意味には、大きな食い違いが生じた。

 

そんな時初代には、青森の有力者から「妾にしたい」という話が上がった。

 

心に従った真の愛を求めた彼女は、太宰の指示に従って、彼のところへ逃げ出した。 

 

 

ある日のこと。

初代の勤め先の女房が、太宰が非合法の左翼活動をしていると、彼の兄の長兄・文治に耳打ちする。太宰の父親は左翼活動を毛嫌いしていた。

 

政治家である文治にとって、この件は酷く頭を悩ませた。

そこで自己保身に走る文治は、太宰の下宿先を突然訪問し、初代と左翼活動の件を問い詰めた。

 

初代と暮らす意思を確認した文治は、弟へ条件付きの結婚の提案をしたのだった。それは次のようなものである。

 

 

・分家除籍

・財産分与の保留 

・生活費として大学卒業までの120円の支給 

 

 

太宰はこれに素直に同意する。

しかし、文治の突きつけた分家除籍の本当の意味は、“勘当”であった。

 

後にそれに気づいた太宰は、悲しみと絶望で再び我を見失い、自殺を図ろうとする。しかもそれは、いきつけの店のホステスである女性を道連れに…。

 

 

 

初代という女性を愛しながら、なぜ太宰はそんなことをしようとしたのか…彼の行動や思考は、我々にははかり知れない。 

 

つづく。 


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