ー太宰治の幼少期ー
病跡学とは…(※ウイキペディアより引用)
歴史的に傑出した人物の生涯を精神医学及び心理学的観点から研究分析し、その活動における疾病の意義を明らかにしようとする学問のこと。
私が病跡学に興味を持ったのは最近の事である。
もともと小説を読むことが好きだった私は、大きくになるにつれ、文豪小説を読むようになった。
文豪たちは表現豊かで、彼らの作品は、繊細で綺麗な日本語で書かれている。
読むにつれ私は、
「人の琴線に触れる小説には、なにか共通したものがあるのか?」
と考えるようになった。
その文豪たちを詳しく調べると、精神疾患や持病持ちであるとか、悲しい過去を背負うなど、それぞれがなにかしらの事情を抱えていた。
そうした何かを抱え込んでいなければ、人の心を震わすような文章が書けないというのは皮肉であるとも思われるが、私は、こういった人たちの葛藤や想いが、その執筆にどんな影響を及ぼしたのか調べてみようと思い、この「病跡学」というテーマでコラムを綴る。
まずわたしがその一人目として選んだ文豪は、太宰治。
『人間失格』『走れメロス』『津軽』…
誰もが一度は必ず読んだことがある作品の生みの親である。
彼の人生は、自殺や浮気を繰り返し、苦悩の多いものであったことは有名である。
しかし、物書き・小説家が皆そうかと言えば、決してそうではない。
むしろ太宰のような生き方をする作家は、一握りといってよい。
だから私は、彼のそうした生き様の根底には、きっと何か理由があるに違いないと考え、彼の生い立ちを紐解くと共に、自分なりに考察するに至る。
彼の複雑な人生を、到底一度には語り切ることはできないので、三部に分けて紹介していこうと思う。
太宰治、本名は津島 修治。
1909年6月19日に裕福な家庭に産まれた。
両親は忙しく、彼の世話のほとんどを召使がやっていたため、親との触れ合いの中で得られる極々当たり前な愛情を、他の一般家庭の子供よりは受けていなかったのではないだろうか。
このことで私は、親の希薄だった愛情のあり方が、彼の作品には大きく影響しているのではないかと推測している。
幼いころに両親から十分な愛を受けずに育った子どもは、成長すると、人に依存しやすく繊細で自己肯定感が低いので、人間関係が上手くいかない傾向にある。
太宰治の女性関係や自殺未遂は、いつまでたっても満たされることのないそれが原因だったのではないだろうか。
親から貰えなかった愛情を、複数の女性と関係を持つことで埋めようとしたのかもしれない。
これまで、恋愛小説や恋愛漫画を読んでいても、物語に登場する、親から愛情を十分に受けずに育った人物像は、複数の異性と関係を持ったり、喪失感のような闇を抱え込んでいたりすることが多いと感じていた。
そうした書き物・フィクションの世界に描かれていたことが、太宰の幼少期を知ったことで、家庭の中で寂しさを埋められないまま育つと、その愛情という名の母性というべきものなのかを、広く他者へ求めようとすることが、現実世界にもあり得るのだと実感した。
歴史に名を残す文豪は、他人から非難されてしまうような生き方をする裏の顔を持っていたわけだが、彼の浮ついた遊び心は、彼自身にも解決できない、どうしても埋めることのできない寂しさが引き起こしたものなのだろう。
幼少期の彼はそんな環境下でも学問は怠らなかったので、現在の東京大学へと進学することができた。が、中退し、卒業することはなかった。
授業料未納、単位不足、大学の必要性が彼にはなかった、などが理由に挙げられている。
その時から彼は小説の執筆を始めており、芥川賞を狙っていたくらい、小説に熱を注ぎ込んでいたようだ。
彼にとって大学での学びは、さほど重要で価値あるものではなかったのかもしれない。
当時の太宰には、大学を除籍になってまで結婚すると決めていた女性がいた。
小山初代である。
彼は15歳で彼女と出会い、深い仲になっていったと言われている。
そんな初心で純粋な恋愛から始まった初代との将来を夢見たにも拘わらず、他の女性に移り気していった彼の胸中は、私にとって実に関心高いものである。
次回はいよいよ、その真相真意に迫りたい。
幼少期、愛情に満たされなかった太宰が、どのように女性たちでその愛情を埋めようとしたのか、その寂寥感とでも言うべき心の闇が、彼の作品にどう反映されているのかを、私なりの考察結果を、ご紹介しようと思う。
つづく…